続ヨーロッパ紀行その6

ドイツから陸路国境を越え続け、ルクセンブルク大公国の首都である盧森堡市とベルギー王国及びヨーロッパ連合の「首都」ブリュッセルを渡りながら更に鉄道でドーバー海峡の海底隧道を通り抜け、イングランド王国及びブリテン連合王国の首都ロンドンへ到着しました。

初入国のルクセンブルクは隣接してることもありややドイツの空気が残っています。が、ザールブリュッケン州のトリーアからの国際バスに乗った頃からフランスの香りが漂って来ました。建築も質実剛健と言った風合いから柔らかい物へと変化してきます。車窓からは一面の青い森の世界です。カリブ海付近の抑揚でスペイン語を話していた焦茶色の肌の男の運転でバスは小一時で昼下がりのルクセンブルク市へ到着しました。
バスが着いた鉄道駅から、木々の緑に埋もれる要塞群を両側に見下ろすアドルフ橋を進み、その崖間際にある憲法広場を越えて行きます。小さな旧市街はあらゆる種類の世界の高級有名店が成しており、免税店溢れるピレネー山脈の公国アンドラを思い出させます。街並みはフランスが地中海の都市の様で煌びやかに輝いています。散策に僅かな時間で事足りた僕たちは、投宿先まで市内バスで移動し旅装を解いたのでした。その後宿付近の食料品店へ出かけてみるとその付近は極めて近代的な資本主義の最先端の様な街並みあり先程のとの違いに目を見張ります。そして巨大な店内には世界中の富を集めた様にあらゆる食べ物が溢れんばかりに陳列されています。
しかしこの豊かで清潔そして美しい国で本能的に直感した事、それはこの街の奇妙さでした。世界のあらゆる見た目の人間が跋扈していおり、バベルの塔がなくなった様にあらゆる言葉が聞こえてきます。それだけなら珍しくはない社会ですが、近代的街並みでは何か映画撮影の設営に恣意的にそれぞれの役割の出演者を設置した様な、人工的極まりない何かを感じさせるものがありました。旧市街も同様で曲がりなりにも歴史あるヨーロッパの君主国にも関わらず、その歴史文化財はわざとらしく取ってつけた様で現実と乖離している。またこの国の公用語であるはずのルクセンブルク語は殆ど聞こえて来ず外国語に取って変わられ、公共交通機関は全て無料、自由に人々は乗り降りしています。世の中の摂理を逸脱している様な感覚です。トルコのイスタンブールが毒のある街ならばここは無菌無臭でおよそ生命というものを感じさせない街でした。

ブリュッセルには4年前に続いてやって来ました。ここに来たのは実は偶然で、列車でロンドン入りするための発車駅のあるという理由でした。70代の夫婦と思しき受付が接客する投宿先はゆうに40年は越えていそうな建物で古き良き西ヨーロッパの匂いがします。建物内は80年代の思い出のヨーロッパそのものの年代らしきホテルで、文字通り同じ匂いがしました。受付の奥に伸びる廊下は調度品の様な内装で臙脂色の柔らかく敷かれた絨毯が似合い、同じ装いの扉を引くとそこは昇降機内です。移動中の昇降機と建物の間には何もなく、剥き出しの壁が目前で下降して行きます。
着いた部屋は家具や浴室の造りなども年季があり当時の図案そのもので薄型の受像機画面だけが最新、天井近くの壁から伸びています。間取りの充分な部屋には廊下と同じ敷き詰められた絨毯が似合うでしょう。置かれた寝台の上には長年使われてきた洗い立ての浴布が、また燐寸箱の様な簡易な石鹸が洗面台脇に数個置かれています。古い宿のためか偶々部屋に無線通信網が届かないホテルで、話をしたり物事を考えながらゆっくりと過ごさざるを得ないと言う意味でも昔そのものだったのです。
またやってきたこの街を歩くと前回とは打って変わって観光客でごった返しています。しかし既に前回の数十年ぶりの様な感動は消え失せています。回を重ねる毎に感性というものは益々鈍していくものなのでしょう。
初めてのルクセンブルクでも、何か理性的に計算しながら体験を受け止めている自分を発見しました。何かに衝撃を受けそれに振り回されるという事はありませんでした。

旅は生きている。きっと僕の旅は既に青年期とは違う物に育ち終わったのでしょう。仮に当時と同じ道程を同じ形式で遂行しても、更に同じ時代背景だったとしてももう向こうから僕に向かってやってくる出来事に振り回される事は無くなってしまいました。もうその様な旅をするのは手遅れです。
今の自分にしか出来ない旅があるのです。

続ヨーロッパ紀行その5

友人との再会を果たしたライプツィヒを出発し、僕たちは一路北上し自由ハンザ都市ハンブルク、再び南下し続けブレーメン州都ブレーメン市そして北ライン•西ファリア州のデュッセルドルフ市と渡り続けました。
ドイツと言えば森や山の印象が強いのですがここ初訪問のハンブルクは北海に面した港街、しかもそれが連邦第二の都市なのです。一方的な違和感ありながら街中を進みます。ドイツとはいえ真夏と思いきや急な気候の変化で鳥肌が立つ気候、その時点で辛うじてできる春先の服装で慌てて防寒です。ユトランド半島も目前、更にスカンジナビア半島やバルト海も目前に置かれた状況が如何にも重く暗いドイツの個人的印象に隙間なく当てはまります。
しかし住民は旅人に暖かい。地元の言語を尊重しドイツ語で真摯に物を尋ねたり意思を伝えようとすると誠意ある対応が返って来ます。ところで僕はドイツ語で話す時、それを身につけた時代以来なので何かの値段を言う際に思わず20年以上昔の通貨単位が口から出てしまうのです。聞いたドイツ人は僕がいつの時代の人間かと奇妙に感じ、思わず心の中で苦笑した事でしょう。
氷雨の中、心が暖かく包まれた僕たちは家族で肩を寄せ合い恵まれた気持ちに満たされ歩んで行きました。
ブレーメンには妻の用事でやって来ました。そして妻の訪問先へと一般住宅地を一緒に歩きました。街中心部とは違い市井の暮らしが垣間見えるのが興味深い。食堂に集まる労働者達、乳母車を押す母親、そぞろ歩く老人など原寸大のドイツの日常が繰り広げられ、お互い人間としての共通点を見つける事ができ微笑みたくなります。
それにしてもこのままではチュートン系やサクソン系ゲルマン族と言った本来のドイツの原住民は近未来に絶滅するのではないでしょうか。この何十年もの間急激に増え続いた移民受け入れの影響や国際結婚による混血化で明らかな非ヨーロッパ系が目を見張るほど多い。おそらく歴史的罪悪感などからの過剰な多文化社会思想や人種的盲目を是とし、伝統保守的な感覚を否定的に扱ってきたからでしょう。観光客の視点からすれば伝統的な文化の中で、古来より代々受け継がれる人々の姿を目にする方が趣がありますが、いずれにせよもう時間の問題で後戻りはできないと思います。今や80年代のヨーロッパの思い出は貴重なものとなりました。僕はきっと見守りに来たのです、消滅していく「ドイツ」を。改めて、ドイツそしてヨーロッパは変わってしまった。

閑話休題、そしてデュッセルドルフ。実は僕は23歳の時に日本企業の会社員としてここに一時赴任した事があるのです。ところが国外にあるからこそ悪く作用した、閉ざされた風通しの悪い人間関係の社会がそこにありました。何年もドイツにいるのにドイツ語も話せず、いつも彼らだけで纏まっている様な高圧的な上司や威圧的な先輩。彼らにとってドイツ語を話し不満や意見を口にする僕は異端児でした。雑言や罵声の命令。激務。僕は即座に退職をしてそのまま南の国へ逃避放浪に出たのでした。またその割り切り方が彼らの気分を逆撫でした様で退職手続きの際、周り中からの突き刺さる様な視線を体中に感じました。
開放奴隷の様になった僕が歩いていた川沿いの旧市街に再び来たとき、もう心の隅で埃を被っていた思い出が今では懐かしく所々に顔を出しています。僕が住んでいたアパートがある対岸沿いでは移動遊園地が賑わっています。目を輝かす子供を連れて行きました。乗り物などで遊ばせ軽食も取り移動なしのゆっくりと過ごした日となりました。
日を新たに子供が言いました。
「お父さん、遊園地楽しかったね」
無邪気な言葉がここでの過去に上から薄く重ね塗りをしたのでした。

続ヨーロッパ紀行その4

暑さの中ようやく列車が動き出し、クラコフを発った僕たちは同じくポーランドはヴィエルコポルスカ県都のポズナンにやって来ました。
遥かユーラシアの果てより来襲の蒙古族による殺戮、ゲルマン族の植民を経たポーランド最古の都市に始めて足を踏み入れとなりましたがここはあくまで通過地点、行き先の変更をしたため苦肉の策で取った針路上にあったのです。気候や移動などが原因で疲弊に喘いでいた僕たちは到着後、芋や東方伝来焼肉の液体香辛料和えなどで腹を満たし街へ。改装工事中の旧市街でありましたが地元の住民が三々午後に行き交い、太古より住み着くポラン系などのほぼスラブ族による賑わいが心地よい。彼らの精神的主柱であろう教会や王国防衛に多くの防人が命を懸けた城砦などに想いを馳せます。
そして針路を西へ取り再びドイツ連邦共和国はザクセン州、ライプツィヒへ。ここにきた目的はただ一つ、ドイツでの学生時代に集合住宅に同居していた友人を訪ねる事でした。彼の住む北方の王国へも旅を進める予定でしたが紆余曲折あり、彼が帰省中の都である神聖ローマ帝国有数の商業都市またゲルマン族の入植以前のソルブ系スラブ族の「菩提樹の集落」であったライプツィヒにやって来ました。

列車から降り歩廊を駅舎へいざ足早に進み、ふと遥か家族の方を振り返るとすぐそこに彼はいました。年月を重ね成人前の息子を伴っている彼を見、一気に僕は数十年前の過去からやって来た未来旅行者に、そして同時に遥か未来である現在から学生時代の過去を俯瞰する未来人になったのです。
僕たちは駅舎の中の寄り合い茶店へ場所を移し、家族を交えての思い出話しに暫し時を忘れました。宿泊手続きのできる時間になったので、一同その寝床を取り置きしていた宿へ。彼らも僕たちに付き添ってくれます。
それから僕たちは街を練り歩きました。僕は学生時代に彼の実家に招待され一度だけこのライプツィヒに来たことがあります。正直既にうる覚えなのですが、雰囲気は充分覚えています。改めて名所旧跡を彼と共に昔話と共に歩きました。あの革命後の時代の昔話に加え僕の家族との新たな話に花が咲きます。外国に併合され独裁体制が著しく変換し、ただ新たな希望の未来に向かう社会にいたあの頃。そんな話しをしている僕の気持ちも、年代特有の希望や夢に溢れていたあの頃の自分に迫ります。
また僕の子供のために公園に連れて行ってもくれ、そこでも周りの人たちも加え楽しい話が延々と続きました。彼の息子がスペイン語が少しできることから僕たちはドイツ語、スペイン語、英語を使っていましたが今となってはあの時何の言葉を使って楽しんでいたのだろう。「心」という共通手段で会話をしていたのだと思わざるを得ません。彼も息子もこちらの疲れに気を配ってくれながら散々歩き回った後、地元名物料理にも招待してくれ、お互い話も尽きる事なくやがて楽しい時間は終わりを迎えました。
この日僕は本当に幸せでした。予定をやや無理に変更してライプツィヒに来て本当に良かったと思いました。極めて主観的な体験により旅先の印象は決定されます。このライプツィヒも友人がいなければある程度の魅力に過ぎなかったでしょう。このライプツィヒでは友人の暖かいもてなしを受けまた感傷的な懐かしい想いに馳せる事ができました。しかも家族との旅という新たな思い出も積み重なる事によって、今後ここは印象に残り続ける街になるでしょう。かつて十代半ばの僕がギリシアのパトラスの人々との出会いによって彼の地が僕の「聖地」にまで昇華したように。
この日はここに至るまでの人生の一区切りとして、きっとあの頃を見つめ浸る為に神様が贈ってくれた一日だったのです。

僕は必要最小限しかインターネット特にSNSをしないようているのですが、昔の繋がりを蘇らせるのはネットの数少ないメリットだと思います。また旅を記録して想い出にする意味で僕は今インターネットを使います。まさに、時めき心を揺り動かされるのは人生つまり想い出という貯蓄ある者のみにしか味わえない精神の御馳走です。一般に年長者の特権に見えますが、僕は未成年時に壊れるほど強烈に心揺さぶられる体験をし、この体験への回帰を直後からいつも強く欲求してきました。つまり青年期から懐古する事ができた訳です。
もう連絡先のわからない友人は僕にもいます。でもそれが時間や距離を含めた本来の人間関係という物だと思うので、本当はそれを「自然に返す」べきではないかと小声で言いたいのです。なのでSNSで繋がるのは筋道というか摂理を捻じ曲げた邪道ではないのかと考えてしまう時があります。と言いながらこのコメントする僕は明らかに自己欺瞞ですが。
同様に旅も、金銭的にも物理的にも手軽にできてしまうのは不自然で苦労して達成した方が旅の感動が大きいです。ある意味5、60年前の人が羨ましい。

続ヨーロッパ紀行その3

ポーランド共和国の古都クラコフを発った列車は今僕たちを乗せ、森に囲まれた鄙びた駅に停車しています。
数日前の早朝チェキアの首都プラハを後にした僕たちはスロバキア共和国を通り抜けハンガリー共和国の首都ブダペストに見参しました。
ああ、我が青春のブダペスト!東方より来たりし騎馬民族のマジャール族がパンノニア平原を血みどろの闘いにより奪取してできたこの国、ここに初めて来たのは僕が18歳の時、まだ革命直後で体制変換の混乱期でした。その後例のドイツ滞在の間何度か訪れここで21歳の誕生日を迎えたのがここへの最後の訪れでした。ドナウの真珠、東欧のパリとも形容されるこの街は僕にとっても特別な意味を持っています。
19歳も終わろうとする頃、このブダペストで偶然投宿した所が世界中を旅する日本人の中継地点となっている場で、ここで僕は旅人達に刺激され必然旅に魅せられることとなり、旅に生きる様になっていったのでした。旅人達と語り合い、時には見知らぬ地の話に血湧き肉踊り時には切なく甘美な想いに満たされた日々。その宿の前を通りましたがもうその建物に宿はありません。そう、これもまた過ぎ去るのです。
そしてそれ以来のブダペスト。特有の街中の建築やドナウ川沿いの王宮そして砦等を目の当たりにしあの頃の様な夏の人いきれに囲まれ、当時いつも聞こえていた音楽を探して聴いてみる。それは自分の心の中への旅立ちでした。


7月11日にブダペストから一路北上した僕達はポーランド共和国の首都ワルシャワへ。これは数十年前の7月12日ドイツ滞在を終えた僕がベルリンへ向かい、そこから大勢を整え夜行列車でワルシャワに辿り着き、そのままブダペストへこれまた夜行バスで南下して行った時とほぼ同じ日の全く逆の進路でした。当時のポーランド滞在は旧市街で一休みした位だったので実質今回が初めての訪問です。ポーランドでは現代ヨーロッパにおいて、異人種や異教徒をほぼ見かけず同質性の高い国を感じられます。世界市民国といった多人種移民国家とは正反対の、その地の純然たる文化本質を感じられる稀有な存在なのです。
ワルシャワでの宿泊先の建物は僕がドイツで暮らしていた学生用集合住宅を思い起こさせるものでした。扉や昇降機、内装等の建築、材質、装飾、匂いに至るまで冷戦時共産圏ヨーロッパの懐古趣味的でおそらく当時のものが殆ど手付かずで残っているのでしょう。やがて雲が湧き珍しく雨が降ってきました。やや肌寒くなり一面鉛色の空に見下ろされていました。が、躊躇しながらもそのまま出かけます。旧市街はかつての王国の栄華をそのままに堅牢な城塞、豪奢な教会と文化大国さながらの街並みがヨーロッパ有数の大国だった過去を偲ばせます。雨はすっかり小降りになりました。それにしてもこの街には陰鬱な空さえもよく似合う。そこにいる者の心を沈着させ思考の世界へと誘って止みません。
夕方、設備上の問題解決の為宿にやって来た従業員はロシア連邦のチェチェン共和国のチェチェン語を操る、布で頭部を隠した装いの老婆。僕の極めて貧しいロシア語の語彙でやり取りする状況もこの辺りの旅ならではの風情です。
今僕たちを乗せた列車はかなり前から先程より少し進んだ別の田舎駅で停止しています。おそらく何かの問題が発生したのでしょう。黄金色や赤橙色の髪を微風に絡ませ車外に出て立っている透けるような肌ばかりの老若男女の乗客達は、短い真夏の太陽の下発車を辛抱強く待っています。
旅をしている、そう感じるひとときです。

続ヨーロッパ紀行その2

愛憎の街ハレを発ってから陸路列車で西へ向かい、ザクセン州都ドレスデンに降り立ちました。
このドレスデンは例のドイツ学生時代に学校の旅行で来て以来の訪れです。
中央駅から郊外沿線の宿付近は国内有数の都市圏とはいえ長閑でやや退廃的な真夏であり思わず再び彼(か)の都市ハレの地を思い起こさせます。結局外国に併合される33年以上も前の雰囲気の余韻なのでしょうか。これは心の中にしか想いを確かめられない事に比べ非常に喜ばしい、期待していなかった発見です。
真夏の太陽の下、人のまばらなグローセンハイナー通りを漫ろ歩くと、虚しく行き交う路面電車の遥か向こうから静謐な並木道にプロテスタント教会の鐘が聞こえます。建物の連なりに頻繁かつ無造作にある雑草の伸びた空き地。そして移民国家であり改めて言うまでもなく多人種多民族国家ドイツとはいえ、大和族とラテン族そしてその混血の我々とは異なる、黄金色の頭髪で陶磁器の様な白い皮膚をした長身で手脚の長い体躯の明らかにチュートン系やサクソン系と見られる先住民のゲルマン族が併合元領土に比べ目立つ印象です。
中央駅からツヴィンガー宮殿までの既に記憶にない道のりを歩くとかなり広い歩行者道と両側に洒落た飲食店や近代的な百貨店が連なります。記憶にない道とはいえこれは全て明らかにその後新しく造られた景色という事位は理解でき、つまり使い古され手垢に塗れた表現ですが、時代と共に変わってしまったという事なのでしょう。思わず「ブルータス、お前もか」という台詞が脳裏をよぎりました。

今のところかつて来た地への再訪が続いているので今後も時を振り返るでしょう。しかしそもそも一般論として歴史への傾倒というのは、少なくとも僕にとっては詰まる所懐古趣味なのです。ともあれ新たな時代には新たな思い出を創り上げられて行く事になるでしょう。
日頃から懐古するのは大好きなのですが、前を向いてないとも言い換えられるので意識的に未来も見ていきたい。そしてもし少しでも興味があるのなら僕は人に旅を是非勧めたい。費用がないという経済の問題なのか、それとも費用は別の事に優先しなければならないのか等あると思いますが、実は人生において旅は費用をかける優先度は高い、つまり大きな価値があるのだと思います。僕たち夫婦はそのように旅の重要さを感じているので、子供の学校さえ休ませて旅に出ているのです。
その後は列車で国を越境しチェキア共和国の首都プラハに。ここではかつて革命直後に日本からドイツの僕を訪ねてくれた小学生時代の同級生山本君と一緒に訪れた街。カレル橋の麓にある簡易宿で夜中まで隣の寝台の彼と語り合ったあの頃。刑法や歴史、人類学など話した内容まで鮮明に今でも覚えています。
街自体は不意をつかれた様な豪奢な文化の旧市街でありボヘミア王国の古へと訪れる者を誘う威光は以前にも増していました。
しかし投宿していた例によって郊外の住宅地は、旧体制時代にあたかも「人民住宅」とでも呼ばれていたかの様な堅牢な灰色を基調とした集合住宅と屋根裏部屋の窓と煙突が突出した橙色の屋根の素朴な一軒家が集まっています。早朝に窓を開けるとこの地の木々の香りが僕の鼻腔を擽ります。また行き交う人々の造形も西スラブ独特の顔立ちであり、それら異国情緒が僕の精神を僕の「あの頃」へと後ろ髪を引くには充分なのです。
旅は終わらない。

続ヨーロッパ紀行

家族でドイツのフランクフルトに来ました。この紀行は令和5年文月到着した時のものです。二十歳前後の一時ドイツで大学に通っていたのですがその滞在を終え、ヨーロッパ各地を周った後ここから帰国して以来の訪問でした。
フランクフルトは、いやドイツは変わった。おそらくヨーロッパ全体が歴史的に変わった。そのせいもあってか懐古的な感傷に浸るまでには至らない。それよりも家族といる思い出が毎日積み重なる。その一形態としての新時代の思い出だからなのだろう。

ドイツ連邦共和国ヘッセン州の州都フランクフルトから列車でバイエルン州の都市ニュルンベルクへ。その途中ザクセンアンハルト州の都市ハレにて乗り換えをする事になったのを機会に街へと繰り出します。ここは19歳から20歳にかけて約1年過ごし学生生活を送った所なのです。

その世代にありがちな様に、当時僕は毎日悩んでいた。しかしそれを自覚できていて尚日々が人生の喜びに溢れ充実していたのも事実なのです。その様な悩みなど今となっては微笑ましくさえ思えかつての自分が本当にいじらしい。やがてそのほろ苦い青春の時はこの地そのものに還元されていったのです。
計画経済の社会主義だったドイツ民主共和国時代にハレ県の工業都市だった事もあり、現国に併合された直後の当時はあたかも機能のみが生産の目的の結果の如く、しばしばゴムが焦げた様な工場の煙の様な臭いがし今でも世界のどこかで偶然その臭いを感じると心は切なく輝いていたあの頃に時代めきます。あれから既に数十年。もう変わり果て懐かしさも微塵も感じられないだろうと思いましたが、全体的に小綺麗に改装された感がありますが雰囲気は意外な程変わっていません。
当時ベルリンから単身たどり着いた、旧体制の元朽ち果てた様に寂れていた中央駅。毎日のように悩みながら何度も行き来した煤汚れたライプツィヒ通り。大学の放課後、帰宅の路面電車の乗り換えや買い物などでまずはと立ち寄ったマルクト広場。暗く、寒く、重かったドイツの冬。乳児の様に懸命に生きようとしている太陽に照らされた、木漏れ日の様な可憐なドイツの夏。しかしそれらの時全てが輝いていました。なぜなら僕には未来があったからです。可能性に溢れていたからです。何も恐れるもの等ありませんでした。未来に挑みたくて我慢できなかったのです。
僕が家族とこの地に帰ってきた今回、還元され昇華されていたこれら全てが一気に演繹してきました。
旅先の今その様な思い出の象徴であるドイツ語を使ってみます。当時の甘く苦い思いが体内に発してきます。徐々にドイツ語についていた錆が落とされ、当時日本人同級生の中で群を抜いて誰よりも高かったドイツ語能力がみるみる蘇ってきました。
「畜生、俺はドイツ語が話せたんだった」
しかし連れている子供には言葉が通じない状況を家族で切り抜けるという経験をさせたい。スペイン語を筆頭に英語やドイツ語も操り如才なく旅歩く父親を当然と思って欲しくない。
何、きっと嫌でもこの旅の途中で困難に当たるさ。

スペイン語の魅力を再考する

以前のブログでも書きましたが、スペイン語は世界で4億人もの話者がいる大言語の国際語だそうです。
僕はスペイン語が公用語のチリに数年暮らし、風貌様々なスペイン語諸国出身者に出会い彼らの色々なスペイン語を聞き、また南北アメリカ、ヨーロッパと旅行もして改めてスペイン語の汎用性と国際性を感じました。また西サハラ、米国、フィリピンもスペイン語話者のかなりの規模の民族集団があり、そしてベリーズやアンドラに至っては非公式ながらスペイン語話者が多数派です。
さらに原始的な意思の伝達なら兄弟言語というべきポルトガル語やイタリア語相手でも十分過ぎる程通用します。ポルトガル語を公用語とする国と言って思い浮かべるのはモザンビークやアンゴラ、カーボベルデ、東ティモール等がありますし、同じくイタリア語といえばスイスやサンマリノ等があります。イタリア語が非公式にとしてはリビアやアルバニア、ソマリア等は誰もが知っている国だと思います。また同じラテン語を元とするルーマニア語もモルドバ等で使われています。少し類似性は少なくはなるものの兄弟ならぬ従兄弟のような間柄とも言うべきフランス語もニジェールやモロッコ、カメルーン、ハイチ等多数の国で話されています。

スペイン語を習う主な魅力や動機としてやはりその国際性、話者分布の広大さを非常によく聞きます。かくいう僕もそれが魅力の一つだと思います。いや、思いましたと過去形で述べるのが適切かもしれません。
ここでスペイン語話者の多さが故の魅力を再考してみたいと思います。確かにスペイン語話者はおよそ4億人いるかもしれませんが一個人の話し相手としては正直なところ数億だろうと数千万、いや数百万人でも充分だと思うのです。言い換えれば4億人との会話など非現実的で一生かかってもできるわけがありません。
もう一つの意見としては、今の意見に関連しますが4億人の話者がいたとして、話すに値しない相手というのがこれまた巨大人口を形成している可能性もあります。例えば知的好奇心を刺激し教養のある話題がほぼ難しい層の人々(人格の良しあしは別として)、それが故に(僕には)価値観が合わない人たちがスペイン語圏にかなり多いであろうことにチリに住んで改めて気付きました。
僕の母語である日本語についてだって、例えば自宅には活字の本がなく、ある書籍といえばせいぜい競馬新聞にだだ煽情的な漫画週刊誌だけという家庭で育った人や、飲酒や賭博、テレビのスポーツ観戦がほぼ唯一の余暇の過ごし方というような人とはお互いの母語が同じとはいえ僕とはあまり話が盛り上がらないと思います。
そう考えると「主観的魅力」のあるスペイン語話者人口というのはかなり限られてくると思うのです。逆に人口比でこの「主観的価値」のある人口が多い国があればそこの言語は大言語と同じくらい学習に魅力があるでしょう。
個人的な経験から言えば、僕は英国人やオランダ人などの西欧系の人は総じて話が面白い知識人と会うことが比較的多い。皮膚感覚から、少なくともチリやスペイン語圏の人より多いのではないかと感じます(実際のところどうなんでしょう。最近の日本人も知性貧富の差が広がっているようにも感じなくもないですが)。つまり最大公約数的な中産階級以上の価値観の日本人とウマが合うのはどちらかといえば前者ではないか、と想像したことがあります。要するに些か乱暴な捉え方ですが、引っ括めた北西欧人というのはこれまた引っ括めたラテンアメリカ人等より中産階級以上の引っ括めた日本人とはウマが合うのではないのだろうか、あるのだろうか。

もちろんある言語を学習する魅力というのはその話者人口だけではないということは論を俟ちません。しかしスペイン語に至っては、気のせいかもしれませんが、それを動機とする論調が過ぎるほど矢鱈と目につくのです。
また世界のスペイン語分布もよく魅力に挙げられると思います。曰くブラジルを除くメキシコ以南のアメリカ大陸ほぼ全域で話され、米国でもその分布増加の勢いは逗まることを知らず、赤道ギニア、イベリア半島、フィリピンのミンダナオ島南部、自称チリ領南極など世界中に広がったスペイン語…。しかしやはり主としてはアメリカ大陸に固まっており、それは詰まり話者人口10億以上とはいえ北京語のほぼ一カ国領土のみ集中しあとは僅かにシンガポール等、といった分布と大同小異に見えてしまうのです。地域集約型といえばアラビア語やヒンディー語も同様でしょう。

ところで話者人口が多い言語といえば5億人弱のヒンディー語はスペイン語以上ですし、2億人以上の話者のインドネシア語やベンガル語、アラビア語等も人口規模主義者を魅了するには十分な話者人口だと思います。しかしこれらの言語にはその割に学習者が少ない(と思われる)のは非常に興味深いです。

そう考えるとフランス語なんていうのはかなりの実力者ではないかと思います。フランス語を勉強する人たちはおそらく西アフリカ諸国や南太平洋諸国にうっとりするほど憧れてはいない。南海諸島の伝統的腰ミノや焚火使用のダンスを羨望をもってうやうやしく鑑賞したり、アフリカ諸国の伝統料理や土着のマナーを上流のものとして感じている人、更にフランス語留学にベナンやカメルーン、ブルキナファソやセネガルにいく人が大勢いるということを個人的には聞いたこともありません。
つまりフランスのみでほぼ独占的に魅力があるものなのではないのでしょうか。つまりフランス語に関しては話者人口はあまり関係なくほぼフランスのみの話者人口でこれ程の世界的魅力があると仮定できます。

最近家族で北海道に旅行に行ったのですが、地図を見ているうちに北海道の北にある樺太が目についてきました。ホテルのテレビで樺太旅行などのユーチューブチャンネルを色々見てみたのですが、「何故か」徐々にその魅力に惹かれていきました。その雄大な自然であり、我が国日本との関係史であり、そして目と鼻の先にあるヨーロッパ文化圏、しかも未知の魅力としてのスラブ文化圏…。

正教会の十字架の下、鐘の音が響く石畳を黄金色の流れるような髪をして、真っ白い青年や少女が行き交っている。市場で食材をを物色する中年女性は丸々とした体格をし、広場に屯す素朴な服を纏い無表情な眼差しの男性たち。感情を強く顕にしているのは蒸留酒を喉に流している者たちだろうか。彼らの顔立ちは古来のスラブ人にやや蒙古人が染み渡って混血されたような独特なものを感じる。更に屢々東アジア的な眼差しも珍しくない程垣間見える。転がるような音で時折捏ねて契り引き伸ばしたような音のロシア語が聞こえ、それは常に強く自己主張の口調である。辺りの整然として無駄を一切省いたような街並みでは見える文字はキリルのみである。街は無骨だがときに欧州造形美の建築も現れ、流れる風は人間味、人臭さに満ちている。針葉樹林を切り開いた地にどこまでも伸びる一本の線路。そこから発つ列車はやがて冷たい紺碧のオホーツク海に沿って征く。付近の未舗装の道を四輪駆動車が揺れながら走っている。海の近くでは時折冷気吹く細やかな太陽の下、人々は刹那の夏を楽しむようにやや荒波の浜辺を訪れている。可憐な美しさと仄かな哀しみの地。そして空には鴎が滑るように飛びその背後には海と同じ紺碧が広がっている…。
樺太そしてその周辺の沿海州や千島列島のロシア語圏を旅している自分を空想していました。そこでふと思いが浮かびました。「もうスペイン語なんて忘れてしまってもいいかな…」
そこでふとやや我に返ります。事実として僕はスペイン語が話せます。しかし環オホーツク海や北日本海沿岸ではスペイン語等なんの役にも立たないでしょう。ロシア語が話せる日本人がチリを旅するようなものです。うまく説明できないのですが、このとき既に自分の人生の一部となって自身に食い込んでいるスペイン語の存在が今更ながら客観的に見えたような気がしました。今更なのですが、学習者や愛好家の間では国際強大言語と名高いかのスペイン語といえども単に世界に数ある程度の言葉の一つである、ということです。そしてその言語を操れるという「特殊技能」がそういえば自分にはあったのだな、と。

この感覚、視点を保ちながら、もうすっかり自分となにかの縁で繋がり、義理のできた言語・スペイン語とこれからも付き合っていきたいと思います。

北米紀行

平成28年7月から行った北米南部の旅を記す。


メキシコ合衆国の首都メキシコ市へ渡ったのが半月程前、それ以前4回のメキシコへの訪れは22歳から24歳にかけての頃だった。初めての時は北米さえ初めてで、メキシコ市から夜行バスで陸路チアパス州都サンクリストバル、そして国境を越えグアテマラ共和国の首都グアテマラ市を経由し、その名が意味する正しく古都アンティグアへ。高地から熱帯雨林へ向かう道中はメキシコで知り合った少し年上のドイツ人の青年と一緒になり、アンティグアの宿で熱帯の果実を味わいながら語っていた彼の人生のほろ苦い一面を今でも覚えている。
メキシコ市北東約50キロの地点テオティワカンの後陸路東へ方向を取ったのは当時と同じく、加えて今回はユカタン州からキューバ島に初上陸。ユカタンまでは夜行バスを乗り継ぎタバスコ州の州都ビジャエルモーサに立ち寄りチアパス州パレンケ、そしてカンペチェ州都カンペチェ、ミリアーノサパタとユカタン州に入りメリダを経てキンタナロー州カンクンへ。バスは最新型、20代に来た当時にはなかった空調設備もある。しかし皮肉にもこの設備が仇となり折角の最新型のバスも疲労困憊、寝不足で過ごすことになってしまった。理由は車内温度で冬の上着なければ凍えてしまうほどの冷気である。しかも窓は開くようになっていない。温度調節を運転手に頼むも一定以上には上がらないようで、そとの熱帯の景色を恨めしく眺めながら、幸い冬のチリの自宅を出るときに来ていた防寒着を使い震えながら晩を過ごすことに。今ではふと苦笑いで済ませられる思い出ではあるが。
閑話休題。アステカ、マヤ遺跡及び当時来た道。それは即ち古代及びかつての自分自身への探求に他ならなかった。

カリブ海のキューバ島の共和国キューバからメキシコへの移動が一緒だったスペイン人とメキシコ人の中年夫妻にいざなわれキンタナロー州都チェトゥマルにある彼らの自宅に暫し滞在、後日陸路国境を越えベリーズ共和国へ。そこはもはや20代の頃見たベリーズではない。
形式的な公用語こそ未だ英語だが、住民の殆どは明らかにマヤ系とその混血で事実上スペイン語の国ではあるまいか。マヤやかなりの漢族系移民が、かつて旅した頃圧倒的多数だったアフリカ起源のガリフナ系住民を少数民族に変えていた。建物が所々に建つ町並みに退廃した暑さの中やおら食料雑貨商に入る。遥か遠い台湾を起源に持つという家族が営んでいた。目ぼしいものがないので、路地を挟んだ隣へ。昼食はそこにある、色黒で縮毛の体幹逞しいアフリカの風貌をした中年女性が切り盛りする弁当屋で取った。隣接する空き地にプラスチック製の食卓と椅子が無造作に設置されている。草が生い茂り、人の往来によって背の高い草が剥げた空き地である。肌に絡みつくような暑さ、近くには塵が散乱している通りがある。蓋付きの発泡スチロール製容器に入った鶏の揚げ物、白米を妻と娘と共に静かに、そして幸せに食した。弁当を販売する小屋と空き地を褐色の児童らが行き来してときおり珍しそうにこちらを見ている。当時まだ3歳の娘にはもう覚えていない出来事であろう。
そしてまた渡り鳥のように長距離バスに乗った。朽ちかけた年代物の車内ではレゲエの音調が雰囲気に強弱を付け、空き放たれた窓からは熱帯の甘い風が心地よく僕たちの髪を乱す。冷房という代物など必要ではない、いや欲しくない。
周りに目をやる。時を越えても尚当時と寸分の違いない海と密林そして太陽がそこにはあった。

ベリーズ市を発ってから陸路で西へ国境を越えグアテマラ入国、フローレスでティカルの遺跡を巡りアンティグアでそれ迄の疲れを癒やす。グアテマラ入国初夜は路上で強盗に狙われるのを察し回避。相手に他愛もない会話で近づかれたが、この大陸に不慣れではない事を見せつける意味でスペイン語が出来て改めて良かったと思う。昔はグアテマラ市でも治安の悪さを目撃しているだけにある意味の既視感である。そして一路北米有数の古都へ。ああ、アンティグアだ。辺鄙な村に過ぎなかったここでは狭いあらゆる路地を車が行き交っている。観光客で溢れかえり、当時は大して有名ではなかったグアテマラ産の珈琲を前面に紹介している喫茶店が中央広場に面する建物に構えられている。米国の有名サンドイッチ会社の看板に観光客らしき金髪の、黒山ならぬ金山の人だかりができている。通りには彼らを宛て込んだ宿、旅行代理店、高級レストラン両替商…、観光化、観光化、観光化、である。
更にエルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアそしてコスタリカへと南東へと国境を越え続け渡って来た。ここもいつか来た道。ああ、またここに来たのだ。

コスタリカの首都サンホセでは定宿としていた市場前のホテルで過ごすも、賑わいはまったくない。宿泊客が我々だけのようだ。市場との間の通りが目下に見えるベランダに出て心地よい夜風に吹かれながら思いを馳せる。そういえばこの通りで長い金髪の若い女性観光客が、地元のらしき男に荷物を引っ手繰られそうになるのを賢明に抵抗していた。通りに面した堅牢な鉄格子の扉がしっかり閉められた後ここで世界各国の若者達と語り合った夜。奈良の彼は元気だろうか。米国カリフォルニア州在住のペルーの彼は今頃どうしているだろうか。このロビーと食堂を埋め尽くしていた大勢の金髪の若者たちは今頃――。ここから皆希望に燃え旅立っていった。南米へ、メキシコへ、または米国へ。
向かいの市場から珈琲豆を炒る燻った匂いが以前と寸分の違いもなく鼻腔を擽った。
サンホセから近場の自然公園を巡りに行くも帰りは生憎の驟雨である。犀鳥や樹懶(ナマケモノ)を眺めながら言うまでもなく非常に強い降りの中、身動き一つ取れないで公園の入場券売り場の軒先でいると、アルゼンチンからの観光客である中年夫婦が車で通りかかりサンホセまで乗せてくれた。ありがたい。旅は道連れ、である。

「楽園」コスタリカでの日々を過ごした後は、16時間の陸路移動で国境を越えパナマへ。変貌著しく世界の旅人集う熱帯の地で態勢を整え、空路でコロンビアのボゴタへ向かった。
パナマ共和国。ここは例によって20代の時南米を旅してから入国した国、当時はここからひたすら北上し帰路へついたのだった。今回はここから南下する。パナマは僕の再訪問で最大の変貌を遂げていた国の一つだろう。当時は運河が米国から返還される前であり、他の近隣諸国のような発展具合の土地であった。ところが運河の利権渡ったからであろうか、続々と高層建築が建設されている。道路の工事が追いつかないようで近未来的な高層建築群れの麓には未舗装で凹凸激しく茶色い水が溜まった通りが巡らされている。
宿も小洒落たところが多く、観光客も多い。宿を探すがどこも満員、暑さと湿気の中もう日が暮れているが宿を探す。ある宿に入ると中庭にプールが見える。娘もすっかり水遊びをする気でいっぱいである、が案の定満員。仕方なくまた路上に戻り宿探しに出るが、その宿が気に入ったらしい娘の「プールー!」と叫ぶ声が何とも気の毒で仕方がない。やがてやっとのことで宿を探し当てた。早速中庭にあるプールで娘もご機嫌である。ここも金髪で長身色白の観光客で溢れていた。ここでは日本人の青年とも知りあった。この旅では初めての同胞である。大阪出身で沖縄から来た元拳闘士の彼とは初めはお互い少しよそよそしかったがやがて少しずつ言葉を交わすようになった。純朴な好青年であり今ではパナマいや、あの旅全体の中でも彼の思い出は大きい。今年の夏沖縄の那覇に旅行に赴いた時に数年ぶりに再会、あのパナマの旅が突如時空を超え甦った。

パナマ市の空港では航空便の時間の都合上空港内で夜を明かしたが、やはりここも冷房地獄である。熱帯の地で寒さに苦しみ、とても仮眠など取れる余裕はない。時折路上にでて暑さを満喫するしかなかった。
そして飛行機は目と鼻の先にあるコロンビアは首都ボゴタの空港へ着陸。ここからサンティアゴへと帰路につく訳だが半日程飛行機の乗り換え時間があったので僕たちは迷わず市街へ。
初めての米大陸訪問で23歳を迎えたこの都市。反政府ゲリラや凶悪犯罪で当時は世界でも指折りの高い悪名だったこの国。その一方で人間愛に溢れるこの国。そして訪れる者を妖しく魅惑して止まないこの国。またいつか戻って来られる事を願う。
この国には毒がある。

追記、旅中のとある日。
その時男は家路についていた。刺すような日差しもかなり西に傾き手にはその日偶然もらった大量の芋が入った麻袋を抱えていた。椰子の木を揺らす海からの静かな風が黒ずんだ石造りの建物が並ぶ石畳の通りを抜けて来る。

その時、当局の人間に偶然見つかり詰問された。一体このような大量の芋をどこで手に入れたのか、家庭で消費するにはあまりにも多すぎる、この芋を売るつもりではないのか。結局男は芋を勝手に販売してはいけないという法の下、一方的に刑務所に入れられることとなった。

塀の中で長い月日が過ぎた。

男は釈放され街へ戻り、彼を捕えた当局から住処と仕事が選ばれ与えられた。既に年老い生きていくのがやっとの暮らしが始まった。

「これは私の人生への罰なのです」

溢れた塵を片付けながら汗ばんだ男は全てを静かに語った。肌に絡み付くような空気を伴う熱帯特有の強い雨はすでに止んでいた。
やがて僕たち家族は旅先で辿り着き休憩をしていたその公園で男に別れを告げた。

後ろ髪引かれて(後編)

まず僕は暮らしていたサンティアゴ市内の暮らしていた区にある政府登録証明局 へ朝一番に行ってみました。
業務開始30分前には既に長蛇の列ができていました。仕方なく列の最後尾に並び待つしかありません。暫くして業務開始の9時になりました。徐々に列は入口に吸い込まれて行きます。そこでふと妙なことに気付きました。それは、外人らしき造形が僕以外にいない、という事実です。どの区にも明らかに多数派と外見の異なる外人はいるはずこれはいくらなんでも不自然すぎます。そして関係者に訊いてみると、やはりというかここでは取り扱っていないとのこと。市内外人の身分証明証更新手続きは一括してサンティアゴ区の証明局で担当している。
仕切り直しを余儀なくされました。
急いで地下鉄を乗り継ぎサンティアゴ区の駅で下車、現地へ向かうと午前中早くにも拘わらず入口から信じられない程の長蛇の列が延々と近くの建物を何軒も巻き込み囲み込む形で吐き出されています。まともに並んだら軽く数時間はかかるでしょう。これは警察に並ぶよりもこの光景に打ちのめされ既に気力が消え失せるのを感じた僕はもはや列を無視列に並ばない人が時折出入りしている窓口へ近づき、ここでも再び関係者に聞いてみるしかありません。曰く、国際警察で言われたことが繰り返されました。
「事前予約を取ってくるか、若しくは列に最後尾から待つか」
気力を絞り無駄な抵抗と分かりながら食い下がってみます。しかし5年前のここでの更新時はこうでなかったと。並ぶ必要もなくもっと穏やかに処理することができた、と。もはや自分を支配しているのは感情だけで自分はまるでただの道化であるいうのは自分でも分かり切っていました。
彼は肩をすくめ、「そんな5年も前のことじゃないか」と切り捨てると話は終わりました。仕方がない、また明日来よう、と悲壮な叫びに心は満ちていました。

翌日、意を決して早朝自宅をでます。地下鉄に乗り、到着は8時前だったと思います。既に早朝の市中心部に横たわる長蛇の列。周りにはその行列相手の商売が行われています。買い物カートに発泡スチロールの箱を固定しその中に入っているサンドイッチを売る者、同様に魔法瓶に入れた珈琲を売る者、パソコンと画像入力装置や複写機を持ち歩き必要書類の複写を商売にする者、いかにもチリだな、と思わず苦笑いが溢れます。盛夏とは言え時折吹くやけに冷たい風、このチリも見納めなのだろうかとつい感傷的になります。
行列は正に牛歩、いや蝸牛歩に相応しく辛い時間が過ぎていきます。持ってきたサンドイッチを小ぶりの背嚢から取り出し味を噛み締めながら両手で大切に持って静粛に、慎んで咀嚼します。掌ほどの大きさでやや厚みがあり歯ごたえのあるチリで庶民的なパン、アジュージャを二枚に割りバターを塗ってゴーダチーズ、そして塩漬け豚肉の燻製を薄切りを挟んだ物を二つ。携帯魔法瓶に入れてきた紅茶を口に含みつつ、喉に詰まりがちなパンの内相部分をゆっくり潤しながら僅かな時間は過ぎていきます。早朝の出発のときには朝食はいつもこれでした。質素さと朝の冷気が気持ちを凛とさせ僕を律してくれるかの様です。
列前後に並ぶ小柄で小太りな先住民系のペルー人と痩せぎすでやや長身なアフリカ系の黒いコロンビア人の中年女性達と雑談します。何処も退屈を極めているのです。
「今日しか仕事が休めない、何としてでも今日手続きを終わらせないと」
「きっと神様が助けてくださるに違いないわ」
列は時には脳天を焦がす開けた場所に、時には冷気の絶えない高層建物間の影に。時間はとっくに正午を越え今度は空腹という新たな厄介も迎えることとなりました。
7時間後、遂に列の順番はやっと建物の前まで来ました。そしてまさかの自体、営業時間の関係で列は途中で打ち切られると言うのです。衝撃の中に世界全体がありました。加えて焦燥が周りを支配し始めます。緊張、空腹、疲労、焦燥そして近寄る絶望。

そのような中遂に列は建物内部へ入りました。どうやら僕の順番は周って来、手続きは行われそうです。前にいるコロンビア人は神に感謝の言葉を表しています。
用意された椅子に腰を降ろしいよいよ最後の待ち時間です。順番が進むごとに椅子を移り続け一時間ほど経ったでしょうか。遂に窓口にやってきました。精根尽き果てかなりやつれ気味になった写真が載ることになった僕の証明証、それは今手元にあります。

そして手続き後発行までに時間がかかりました。手続き時に受付をした職員よると証明証の受け取り場所にに各区にある役所を選べるということなので、迷わず自宅のある区にある役所を希望しました。これがまた歯車を狂わすのです。今思えば手続き時の役所で受け取りをしていればすぐにできた話なのですが、この結果情報転送に時間がかかる事となり遂に帰国の日に間に合わなくなってしまったのです。それまで毎日役所に顔を出し、受け取りはできるか聞いていました。つくづく思うのは、問題というのは起こるものということです。もはやこれまで、と諦観し信頼できる人物に受け取り託し、日本へ発送してもらうことにしました。
公証人役場で代理人が受け取る旨の書類を作成しそれを彼に渡し、ささやかにお別れの歓談をした翌日、強い日差しが差し込むがらんどうとなった我が家を見つめ直し、僕たちは空港から飛び立ったのです。日本など東アジアでは新型肺炎の感染が問題化し始めていました。

帰国後家族と共に生活が落ち着いてきました。当初僕は定期的にチリを訪問し、現地でやりかけていた、多少は飯の食い扶持にもなる好きなこともその都度してみたいと思っていました。それによって一年間以上チリ領土から離れることにならず、結果的に永住査証の有効期限も維持できれば御の字だと思っていたのです。
しかし何の因果かこの新型肺炎のよって状況は一転、航空券の価格高騰、航空便の減少、やむなく取った手段は永住査証の延長手続きです。これは要するに一年以上チリを離れると失効する永住査証の期限延長をチリ国外に於いて4回まで認められるという法に従っています。因みにこの永住査証は執行したら最後、2回目の発行はないというのです。そのためにその延長の理由も必要なのですが、この新型肺炎禍での移動困難による国外在留はチリ政府によって明確に認められていません。何でも航空便自体は少しであろうが高額であろうが存在する、従ってチリ帰国は可能であるという見解らしいです。その決断、在日チリ公館での手続きなど自体は劇的に進むのですが、如何せんここでは長くなるのでこの辺りで省略します。現時点で既に2回、この手続きをしています。

かつて日本に帰国してから、事あるごとに僕は言っていました。いや、実は自分自身にに言い聞かせていたのでしょう。今は日本にいるが基本的に日本とチリを行き来する生活になるつもりだ、と。しかし査証延長を繰り返すうちにこの言葉がなんと虚しく宙を舞って聞こえていたことか。
そして期限延長3回目の査証期限を数カ月後に控えた現在、僕は妻と話し合っ結果永住査証を放棄することにしました。ぼくがチリに後ろ髪を引かれてこの査証に拘っていたのは前回の投稿でお分かりだと思います。心理的にも行政管理的にも家族と引き裂かれてしまう。しかし下した決断は揺るぎない、いや揺るがすべきではないと思われるのです。次のような理由になります。
日本にいる限り今のところ妻にも永住資格を取得する機会がある、そうなれば日本国籍をも持つ子供と共に家族はチリでの状態を正反転させた状態になり、限りなく等しい社会行政上的身分で生きていくことができる。チリに住処もなく日本の生活の方が安定している、子供の将来及びより良い教育や治安といった理由。チリにも長所は多くあるのですが、日本のほうがより高度な文明と文化的だと(主観的ながら)思える。またよしんば永住査証を永久に失ったとしても、定期的な更新はチリ国内でも必要だが配偶者査証でまたチリに住む方法もある。永住査証に拘ることによって毎年チリへ行くことが事実上義務付けられてしまう。その結果チリ以外にもあるこの広い世界を見聞き知るといった機会が損なわれてしまう、能動的楽観的に言い換えればチリ永住査証を手放すことによって他の広い世界をもっと知ることができる。これは令和の御代の初年に家族で行ったヨーロッへの、我が人生の宝とも言うべき旅に強く影響を受けています。
などと色々と言い訳がましく書き並べましたが詰まる所、恐らくチリを含めこの世界というもの全般が極めて身近になり過ぎてしまったということなのです。ひと昔前と比べると航空券の価格が非常に下がり、情報技術の急速な発展で世界へ何と手軽に行きやすくそして滞在し安くなったことか。僕もそうでしたが最近次から次へ知り合いが、猫も杓子もといった具合に外国へ移住していきました。現地では母国語の情報をインターネットで得、帰国しようと思えば理論的にはすぐにでも実行可能であり、今更ながらなんと手軽にと感じずにはいられない現象です。
一昔前には海外移住には浪漫がありました。それは未知の世界であり渡航や帰国の経済的困難もありまた、母国から離れ同胞に会うことも少なく母国語にも中々触れられないという孤独もあったでしょう。浪漫とはそれらの含蓄だと思います。翻っての現在、簡単にいつでも実行に移せることならば、敢えて拘る魅力も嘗てほどはない。平たく言えばいつでも行けるなら敢えて行くこともない。言い換えれば魅力となる未知数が足りないということかも知れません。
そしてもう一つ。僕はチリが好きです。が、あくまでそれは妻の祖国という義理の手前だったのではないでしょうか。実は在住中から自問自答していました。何かが足りない。この国をギリシアのように寝ても覚めても想い続け身も心も恋い焦がれ、これに陶酔状態に陥ることがない、いやどうしても「できない」…。

それでも後ろ髪を引かれます。しかし既に腹は決まりました。心は不思議な程静寂に落ち着いています。
そして最近やっと動揺なく言えるようになりました。
「僕はチリに住んでいました」と。

後ろ髪引かれて(前編)

「僕はチリに住んでいました」
やっと気持ちの整理がついてこのように過ぎし日の事として述べることができるようになったのは最近のことです。住んでいたのは平成25年から令和2年までのことでした。


当初僕は観光査証でチリに入国しその約三か月後、手続きを経てチリ人の配偶者としての査証に変更することができました。チリの住民になるに従い当局より身分証明用個人番号も発行され、その番号と指紋入り証明証を所有することとなりました。そして配偶者査証の有効期限が切れる約一年後、永住査証の申請ができたのでそのようにし永住査証が発行されました。チリ入国からわずか一年強後の出来事でした。
前回ブログで述べた通り日本へ帰国した訳ですが、その直前に身分証明証の失効期限が迫っていたのです。当初、帰国後は定期的に日本とチリを行き来したいと思っていたので、実利的にもこの「身分」を保持したいと思いました。しかしもっと根本的な理由として、心理的な点が挙げられます。つまり妻がチリ人であるという事、子供が日本人とは言えチリとは切っても切れない関係、つまり彼らもチリ人であるという事、僕も可能な限り彼らと同じ身分にいたい、彼らの祖先から続く文字通りの母国を敬愛しそれに僕も抱かれていたい。やや荒唐無稽ですが思わず政治的に僕らが切り離される可能性まで想像してしまいます。
ともかく身分証明証の更新手続きをすることにしました。
ところがこれが第一の関門だったのです。

そのためにはまず、チリ政府登録証明局 (Registro Civil e Identificación)にて手続きが必要となります。そして手続きに必要な書類を手に入れなければなりません。それはかつてサンティアゴ市サンティアゴ区にあるチリ刑事局国際警察(Policía Internacional)外国人課にて登録した永住査証証明書(Certificado de Vigencia de Permanencia Definitiva)というものです。
もうすぐ僕たちは日本へ向かう…。やや切ない気持ちになりまがら真夏の黄金の光に包まれたサンティアゴ区のビルの間、如何にも計画的に設立された街特有の碁盤の目状になる通りに黒眼鏡の奥に目を細めながら一人歩いていきます。チリにやって来たあの頃のことが次々に思い出されます。まだ生後半年ほどだった長女を前に抱えながら来た初夏のこの道。乾いた空気の中貧しいながらも麗しい木々の新緑と高い気温。妻に付き沿われて警察に着いたときには長女と僕の体の間はとても汗ばんで大きく染みのできたシャツ。本来は4、5時間はかかるであろう待ち時間の館内で、幼子を連れていた僕たちは優先窓口に通されものの数分で済んだ手続き。娘を抱えたままで撮られた証明写真。そんな彼女ももう日本で小学校に入学する時期です。それら哀愁に思わず微笑みが表情に零れてきます。
着いてみるとそこは何か趣を異にしていました。活気がなくそもそも入る事ができなくなっています。当時と比べたらすっかり上達して操ることができるようになったスペイン語で通行人に聞いてみました。一体警察はどうなっているのかと。すると所在地が違う、つまり移転したのです。幸い数ブロックに過ぎない離れた場所に移ったということなので更に足を伸ばして向かいました。すると、先ほどの元所在地とは正反対に活気にあふれています。否、活気というより一見して外人の群衆が、全く動こうとしない行列の中恨めしそうな表情に汗と疲労を滲ませ文字通り館内から路地へ溢れているのです。主に褐色から漆黒までの様々な人がかなりの距離の列をなしています。
その場に臨んで状況を把握した僕はそれまで実に呑気でした。チリには僕たち外人が増え過ぎていて行政が僕らの手続きを捌ききれないでいたのです。数秒の間呆気にとられた僕は路上にいた係員を尋ねました。曰く、インターネットのオンライン上取得する予約をする様にとの事。行列を作っていた暗澹たる形相の群衆は予約なしで、恐らくもはや予約を俟つ時間がなく、予約済みの人たちを優先する手続きの合間の僅かながらの受け付け対応に託し、早朝から一日覚悟で言わば原始的な受付待ちをしていたのです。但し順番が周ってこないうちに営業時間が来れば次の日、または翌日の開始時間まで更に一晩待つつもりでいるのかは定かではありません。ともかく、予想外の事に軽い眩暈を感じつつ一旦は帰路についたのでした。

そして早速予約をしようとしてみると…、既述の通りこの数年で外国人が急激に増加したためか予約が取るだけでも2、3か月かかるということが分かりました。この時点で身分証明証の失効まで確か2、3週間、フライトの日を2か月後に控えていました。調べたところ警察の予約を含めた証明証更新の申請中は期限切れはもちろん問題なく待機をしていればよいとのこと。予約さえ取り指定された日智時に警察で証明書さえ手に入れればあとは政府登録証明局で手続きをするだけ、しかし肝心のその警察の予約が…。
いざ自分の身に起こった境遇を目の当たりにし長蛇の列の彼らの行動が「自然」であることを理解できました。こうなれば僕も南米大陸カリブ海諸国等各地からの彼らに混ざり、原始的な受付待ちをするしかないではないか。
こうして僕は再び立ち上がったのです。

まず少しでもこちらの言い分を訴えて少しでも優先的に列前方へ入れるようにしなければならない、こうした思いから僕はチリ人である妻を同行することにしました。
必然的に幼い子供も同伴せざるを得ないことになります。乳母車を押したある朝、僕たちは早朝例の警察の前に来てみると既に長蛇の列。多くの外国人に混じって僕たちも並び初めました。
数時間経過、たったこの一語ですが他の子連れの熱帯地方出身らしい人たちと並びます。乾ききった日差しに身を傷つけられ埃っぽい路地で汗に塗れながら。チリに来てからこの「待つ」という事が生活の一部になっているとつくづく思いました。商店での支払いで、役所で、銀行で、病院で、期日を過ぎた賃金の受取も、そして署名済みの契約書があるにも拘らず返済借金の受取でさえ。社会の運営が恐ろしく非効率的だと感じざるを得ません。日本は忙しくストレス社会だという論調があります。しかしここチリひいては南米諸国では何かにつけて物事が円滑に進まない現実においては、ある意味かなりのストレス社会だともいえそうです。見方を変えると目から鱗が落ちました。そうです、日本とは何とストレスのない国なのだろう、南米とは何とストレスに満ち溢れているのだろう…。
それはまだチリに慣れていないから、また日本の感覚を引きずっているからであるとも言い得ますが、一方チリの「ストレス」を特に負担に思わないというのは日本のストレス社会を生きている人たちと同様、本来心身の負荷であるストレスを当然のものとして受け入れることに慣らされてしまっている悲しい性(さが)なのではなでしょうか。あたかも奴隷が諦観する以前にその身分を何も疑わず受け入れてしまっているかのような。チリ・ストレスの奴隷に成り下がっているのではないでしょうか…。

時折路上に現れる関係者にチリ人の妻も交渉していました。僕たちは乳幼児連れだから便宜を図ってほしい、順番を早めてほしい、と。他にも優先枠として子連れの外人たちがいましたが、朝から並びに並び待ちに待った僕たちも、当初渋られていましたがやっとのことでついに僕たちも何とか優先的に受付されることになりました。ついに館内へ入る事が許された僕たちは一安心、管内の列に時々待たされながらもあとは比較的早くことが進みます。支払い、写真撮影、書類への署名そしてそれの受取り。疲弊した僕たちは外に出ました。現金なもので乾いた空気が心地よく身を撫でてくれます。住み切った碧い空が未来への希望を指し示してくれます。未だ行列に喘ぎながら約束の地・チリに人生を賭けてやってきた人々が長蛇の列を形作っています。ここは様々な人生の交差点なのです。
こうして第一段階は終わったのでした。

後編へ続く。